「はぁっ、はぁっ……、はぁっ……」
 長い緑髪をなびかせながら、少女が一人走っている。薄暗い石畳の回廊に足音が響く。細い体にぶつかる空気は、長らく外気に触れられなかった為だろうか、ひどく湿気てくぐもっている。
 汗ばむ顔に粘りつくように絡む冷気が気持ち悪い。呼吸が上手く出来なくて苦しい。
 それでも少女は止まること無く走り続ける。その後ろを追いかけるのは、彼女と同じ程度の大きさの四足獣が一匹。だが『獣』という一言で片付けてしまうには、その姿はあまりに常軌を逸している。巨大な耳、捩れた角、大きく裂かれた口と流れ出る大量の涎、そして地面を引きずる程に長い濃紅の舌。全身紫色の肌からは絶えず赤い液体が滴り落ち、篭もる大気に悪臭を放つ。
 しかし、どんな禍々しい見目形よりも彼女が恐れるのは、その存在から自分に向けられる何か得体の知れない感情。それが純粋な『悪意』というものであるという事実に気が付くことができるほど、彼女は世知辛くは無かったのだ。幼いその身で感じるのは、ただただ圧倒的な恐怖。肺が引き裂かれる程に酷使され悲鳴をあげようとも、彼女は自らの足を止めることができない。
 逃げなくては、この悪夢から、一刻も早く。早く、早く、早く!
「あっ……!」
 だが、彼女の体はもうとっくに限界だった。通路を抜けてひらけた部屋に出たその時、僅かな段差に足を取られてしまったのだ。疲れきったその体では最早立ち上がることは適わない。背後で鳴り響く荒く湿った吐息から逃げる手段は、残されていない。
 魔物は目を赤々と光らせ、目の前の獲物に迫る。
 少女は後ろを振り返る勇気すら無く、涙を湛えた瞳を固く閉じた。
 追い詰めるのが喜びであると言わんばかりに、紫色の体を震わせながら少しづつ少女に迫る。一歩、一歩、柔らかな肢体に近づいていく。そして、遂に、大きく跳躍。勢い良くその幼い肉に飛び掛り――

『厳ツ霊よ、疾れ! 我が手に奮うは白雷の槍――!』
 少女が自らの運命を享受しかけたその時、鋭い閃光が走った。その光は激しい雷の波を伴って魔物に襲いかかる。
 迸る奔雷の勢いに押されて倒れこんだ焦げ臭い体躯に、また別の何かが勢い良く突っ込んだ。瞬間、魔物が上げかけた絶叫は骨が砕ける音にかき消された。
 目を瞑り脅えきる少女には、何が起きたか分からない。いつまで経っても訪れない痛みや苦しみに顔を上げれば、そこに立っていたのは恐ろしい魔物では無い。
「おいアンタ、立てるか?」
 そこに居たのは、少年と子供が二人だけ。差し伸べられた少年の手を、少女は呆然と眺めるばかりだった。

 

 石造りの床、石造りの壁、石造りの天井。どこまで歩いても代わり映えのしない光景。淀んだ空気の中に聞こえる足跡は、3つ。
「まだ大分歩くと思うけど、大丈夫か?」
「はい、頑張ります!」
 その少年は、恐らく自分と同じくらいの年齢だろう。くたびれたシャツに灰色のコートを羽織った少年。彼の背中を追う少女には、ツンツンと撥ねる短髪と、コートに施された金の刺繍が、髪と同じ色をして眩しく映る。背丈も体付きも殆ど変わらない、一見普通の男の子。彼があの恐ろしい魔物を屠った魔術師だなんて言ったとして、一体どれだけの人が信じるというのだろう。
「レヴィー、みち、こっちだよな?」
「ん。右に曲がって、その次は左だ。一人で先行くんじゃねーぞ、リド」
「おう! おれ、レヴィのとなりをあるくから!」
 しかし、あの魔物の命を奪ったのはレヴィナスという少年では無い。例えどんなに力強く吹聴したところで誰も信じることは無いだろう、小さな私達よりも更に小さなリドという子供こそ、あれにトドメを指した張本人なのだ。
 地面に引きずる程の長い外套をひらひらさせながら元気一杯に足を動かす褐色の少年。ボサボサに伸ばしきった長髪の上にあるのは、ぴこぴこと揺れ動く二つの耳。それが人間の物でない、狼のそれだと言うのだからまた驚きだ。亜人、デミヒューマンというものだろうか。少女は亜人を見たことが無かったから、これが初めての邂逅となるのだろうか。
 自分と変わらない年頃の少年と、自分よりもずっと幼い少年。彼らはその年齢にして一人前の冒険者であり、今もこうして新たに発見された遺跡を探究しているのだという。あんなに恐ろしい魔物を簡単に退治できるだけの実力を備えた二人の少年を、彼女、レイナは羨望の眼差しをもって見つめていた。
「それにしてもレイナ、どうしてあんなところにいたってんだ? こんな遺跡の奥深くに、何の装備も無く一人きりで侵入しただなんて、どうにも考えらんねーんだけど」
「えーっと、それが私にもよくわからなくて…… 町から少し離れた場所に花畑があるんです。昨日までの嵐でぼろぼろになっちゃってて、少しでも手入れしたいと思ったから、それでお昼の仕事が終わってからずっとそこにいたんです。そしたら急に、地面が崩れて……」
「町の外にはまだ未開拓の遺跡が大量に残されてるからな。……ああ、ちょうど見えてきた」
 長い通路を左に折れると、広々とした空間に出た。その部屋に入って何よりもまず目に付くものは、
「……石版?」
 レイナの身長の倍はあろう、巨大な石版が安置してあった。不可解な文字列と意味深な紋様が所狭しと刻まれ、そういった知識が無い彼女にも、これが文化的・歴史的に見て重要な物なんだろうと見てとれる。
「中心に七星、それを囲むように九円、それらを繋ぐ13の曲線。この魔法陣と周囲に書かれた文字の在り方から考えるなら、大体1000年ほど前に作られたんだろうな。数多の神が世界を支配し人々の信仰を得て戦いに明け暮れていた時代……この遺跡も、そんな名も無き神の為の神殿だったんだろうぜ。
 そんな風に古臭い遺跡なもんだから損傷も激しい。ここ数日の嵐で土砂が流れて入り口が発見されたり、地盤が緩んで一般人を内部に入れちまうくらいにな。
 まあ、この遺跡について詳しいことは歴史家達に任せればいいさ。俺らの仕事は遺跡内部の地図の作成、そして占拠している魔物の排除。一応ここにいた魔物は全部退治したけど、単にやっつけただけじゃ奴らを構築する『混沌』は消えない。再び肉体を再構築して周囲の環境、生物を破壊する。だから今からその浄化作業をして、そんでようやく任務は終了っつーわけさ。……おい、リド。あいつはまだこねーのかよ?」
「うー、こない。においないし、あしあと、きこえないもん」
「あんのヤロー……、こっちは金払ってんだぞ!? 完全に契約違反じゃねーか!」
「でも、いつものことだもんなー」
「遅刻するのが『いつものこと』で済ませられるのがそもそも問題だ! クッソ、今度という今度こそは払った金返してもらわねーと……!?」

 不意に、地面が揺れた。空気が揺れた。壁も、天井も、彼ら三人も。
 いや、揺れているのはこの遺跡全体だ。そしてそれを揺らしているのは、耳を貫き響き渡る絶叫。その声が聞こえるのは、石版の向こう側……いや、違う。石版の、内側からだ。
「! レヴィ、くる!」
 レイナは感じた、自分に襲い掛かってきた魔物と同じ、絶対的な悪意を。
 石版の文字がどす黒い闇に塗りつぶされていく。魔法陣が青く輝く。黒さは黒く、青さは青く、その色を増していく。
 そして、その中から何かが『這い出してきた』。石版の厚さなんて30cmにも満たないはずなのに、その中に何かが詰まっているなんて考えられないはずなのに。この青い肌の悪魔――角があって羽があって爪も牙も尖っていて、もう見た目からして完全に悪魔なのだ――は、こうして彼らの前で咆哮を上げている。レイナは思わず耳を塞いでしゃがみこんでしまう。
「レイナ、走れ!」
 声と共に前に走り出すレヴィナス。レイナが飛び上がって逃げ出すと同時に、その魔物は彼女目掛けて魔力弾を打ち出した。
『我が手には大地、我が手には盾――』
 轟音、疾風。空気を裂いて進む魔力は、レヴィナスが作り出した防壁に阻まれた。魔力と魔力が弾けて光を放つ。魔物が目を眩ませたと同時、リドが全速力で駆け出す。その速さは、まさに狼。人間には有り得ない速度で飛び掛ると、右手を大きく前に突き出す。その手は、あからさまに異様だった。爪の一つ一つがナイフのように長く、そして鋭利だ。そんなものが高速で突き出されるならば、普通ならば到底かわせはしまい。
「――――!」
 だが相手も、当然普通の相手では無かった。肉ならば容易く貫く爪撃も、あっさりと魔物の腕に阻まれる。
「このぉ……!」
 再び繰り出す突き、払い、身を翻しながら裏手で殴りかかる。角度を変え狙いを変え、雨の如く攻撃を繰り返す。
 しかし、その全てを防御されてしまう。リドは攻撃手段はその爪だけだが、向こうは腕全体が硬化しているようだ。それを盾のように使われれば、リーチと攻撃範囲で劣るリドがそれを突き破るのは容易なことでは無い。
 それでも、彼は攻め続けなければならない。向こうの体格は2mほど、リドの倍くらいはある。もしも相手から攻撃されることになれば、その体格差は如実に現れてくるだろう。闇雲で無意味に見える攻撃は、向こうの攻め手を封じこちらに勝機を見出す為の最良の手段だ。頭で分かっているわけでは無いが、本能でそれを察知していた。
「リド、下がれ! ……『我が手には闇、我が手には鐘。無明の夜に弔鐘鳴らせ――!』」
 リドが大きく身を翻すと同時に、レヴィナスが詠唱を紡ぎ終えた。魔物の周りに黒い靄が掛かると、途端にその動きが鈍り、敵は何かに苦しむ様に咆哮を上げる。レイナが再び耳を塞ぐのと、リドが敵目掛けて跳躍するのは同時だった。
 火花が散り、魔術が舞う。レヴィナスとリドは絶妙のコンビネーションで魔物を追い詰めていく。目にも止まらないその戦闘風景に、レイナはただ息を飲むばかりだ。
 だが、
「はぁ〜、こらアカンわぁ〜。やっこさん、随分とまあタフなやっちゃな〜」
 いつの間にか、彼女の隣に誰かが立っていた。驚いてびくつくレイナに、
「あ、驚かんとき。だいじょ〜ぶ、うちはお客さんにはミョーなことはいたしません!」
 えへん、と胸を張る少女……いや、少年だろうか? 顔立ちは綺麗だが、そこからは年齢も、性別すらも計れない。
 真っ黒のショートカットに、真っ赤の洋服。違う、その服はどこかの民族衣装だろうか? とにかく、何から何までさっぱりだ。
「ていうか、お客さんて……?」
「あ、そこどいとき、ちっとばかし危険かしれんから〜」
 そう言いながらも、その人はレイナがどいたかどうかは確認しない。肩から提げた大きなカバンを開けて、小さなビンを一つ取り出した。ラベルには緋色の文字で、『うちのどらごんちゃん』……などと書かれている
「ほうら二人とも、そっち行くで〜! とっととのいときや〜っ」
 勿論、二人がのいたかどうかも確認しない。蓋を外して中身を魔物に向けると、
「さあ、大暴れしてきいや!」
 途端、魔物は勢い良く発火した。
「―――、――――!!」
 けたたましく鳴き叫んで倒れる魔物。その体からは火の手が上がって――
 いや、違う。魔物から炎が出ているんじゃない、炎が魔物を『喰らっている』んだ。その炎は踊るように、魔物の体を貪り食う。その姿はまるで、一匹の竜。ごうごうと燃える音は竜の雄叫びか。何故だろう。その音が、歓喜に満ちた物の様に感じられるのは。
 ああ、あの炎が竜なのだとすれば、魔物が単一で敵う相手であるはずも無い。何しろ竜といえば、神に最も近いとされる神話の生物じゃないか。それに、どれだけのた打ち回って腕を振ろうとも、炎を殴ることなどできるはずも無い。中途半端な風ではむしろ火を煽るだけなのだ。
 肉の焼ける嫌な匂いと音が部屋中に渡る。レイナが吐き気を催して来た頃には、もう魔物の肉と骨は、ただの灰となってしまっていた。
「はい、おつかれさん! 戻ってええで〜」
 声と同時に、竜はその人の下に戻っていく。炎が向けられたビンの中に入り込み、その人がビンの蓋を閉めれば、部屋を満たすのは静寂だけになった。
「……こ、このヤロォオオ!! 何考えてやがんだ、こっちまで巻き込まれるとこだったぞ! ていうか何だ今更、遅い遅いぞ遅すぎる! どんだけの遅刻だ、こっちは高い金払ってんだぞ! おい聞いてんのか、カグラァアア!!」
 その沈黙を打ち破ったのはレヴィナスの怒鳴り声だった。部屋の隅に退避していた彼は、鬼気迫る顔でつかつかと、カグラと呼ばれた人に迫っていく。
「まあええやんええやん! こうして苦戦してた相手をやっつけたん、うちやしな〜」
「べ、別に、苦戦なんてッ……」
「ん〜? そないな嘘、うちに通用するとでも? まあええわ、うちの虎の子を使わせたんで遅刻はチャラっちゅーことで。本当は1000Gは取ってもおかしくないんやで? ああ、うちの心はなんて寛大なんでしょう〜」
「お前なぁ……!」
「はいはい、そんなとこいたら邪魔、邪魔! こっからの作業はうちにしかできません、もうちょびーっとは感謝してもええのにな〜」
「それ以上に失礼しまくりだろうが、お前はよ……」
 レヴィナスは腕を組むと、半ば諦めた様に顔を伏せた。
「カグラ、こんにちは!」
「はいはい、こんにちは〜! リドくんはええ子やね、どっかのとーへんぼくと違って」
「おい、聞こえてるぞ!」
「聞こえるようにゆうてるんやもん。ほらリドくん、あっちいっててな。アメちゃんあげるからな〜」
「やったー! あめちゃん、あめちゃんー!」
 あからさまに不機嫌なレヴィナスと、やたらとご機嫌なリド。そしてカグラという存在とやっつけられた魔物、レイナは混乱が治まらなかった。
「あの、レヴィナスさん。もう魔物は、大丈夫なんですか? あと、あの人は一体……」
「魔物はもう退治したよ、あいつの商品の力は確かだからな。んで、あいつは商売人。ボッタクリ屋。適当屋。うさんくさい屋。気を許すんじゃねーぞ、骨の髄までしゃぶられるぜ」
「こらっ、聞こえてるで!」
「聞こえるように言ってんだよ! ……んで、こっからがさっき言った仕上げだよ。魔物が発生する原因、『混沌』を浄化するのさ」
 カグラは石版の前までやってきていた。魔物がその中から這い出してきて、あれだけの戦闘を経て、その石は未だ健在。損傷も劣化も無い。
 再びカバンを開け、同じようにビンを取り出した。ラベルには、またも緋の文字で『浄化用 ※取り扱い危険、厳重保管』と書かれている。
「本来なら魔物の発生源の『混沌』を除去できるのは、修練を積んだ魔術師か徳を積んだ僧侶だけだ。普通の人間では到底成し遂げられないそれを、単なる人が簡単な手段で出来るようにしたのがアレなんだってよ」
 蓋を開け、ビンを逆さにする。真紅の液体が、暗がりの中でも輝いて石畳に滴り落ちる。
 それからカグラは、一つのマッチ棒を取り出した。何の変哲も無く見えるそれは、火を付ければ普通の品で無いことはすぐにわかる。黒く輝く炎、なんて聞いたことも見たことも無い。
 『黒く輝く』なんて余りに珍妙な表現なのだが、どうにもそうとしか描写のしようが無いのだ。闇を照らし出す黒、周囲の暗黒に飲まれずにその存在感を放つ
漆黒。それを軽く放り投げると、地を濡らす液体に引火した。
「……!」
 レイナは思わず息を飲む。黒い炎は勢い良く燃え上がる。それは即天井にまで達し、数刻とせずに部屋中を埋め尽くす。その光は目を焼き、熱は喉を焼く。遂には、その肉をも飲み込まんと迫りきて――

「はい、おつかれさん〜!」
 彼女の体は、燃えてはいなかった。あれだけ激しかった炎は、もう影も形も見えてはいない。
 錯覚? いや……。
「クッソ、相変わらずどうやったのかさっぱりだ……!」
 レヴィナスはカグラの下に歩み地面を見つめると、苦虫を噛み潰すように顔を歪ませた。レイナとリドも、その後ろからレヴィナスの見ている物を覗き込んでみる。
 そこにあるのは、一つの小さな魔法陣。それを描く緋色の線は、カグラのビンに書かれた文字と同じものだ。
「何を使って、どうやって、浄化作業と結界作成を同時にこなしやがるってんだ? こんなの普通は丸一日かけてやる大仕事だってのに……」
「何もかもぜ〜んぶ、企業秘密っちゅーやつや! 教えたらうちの収入が減ってまうしな〜」
 大きく胸を突き出して大威張りのカグラに、レヴィナスは深く溜息を付いた。「だから知りたいんだっての」と、溜息に乗せて聞こえたような気がする。
「ほら、後の作業はぱぱーっとやっとくから地図貸しい。その女の子、普通の町民やろ。送ってった方がええんとちゃう? あ、リドくん借りてくで」
「は? なんだってまた」
「だって、最後の最後まで作業済ますまでは何が起こるかわからんもん」
「仮にそうだとしてもお前に護衛なんて必要ねーだろ?」
「何? 人がめ〜ずらし〜く、気ぃ使ってんのになあ」
「なッ……!」
「ほら、リドくんこっちおいで。うちといっぱい遊ぼうな〜」
「おう! じゃあな、レヴィ! おれ、カグラとあそんでくから!」
「あ、おい! ……ああ、くっそ!」
 二人して走って行ってしまうのを地団駄踏んで見送るレヴィナス。しかし、事情が掴めず困惑するレイナの姿を見つけて、ぶっきらぼうな表情でその手を差し伸べるのだった。

 

 外に出ると、もう日は落ちかけていた。町の南東にある山の中腹、ちょうど町を展望できる位置だ。
 レイナは大きく深呼吸する。胸の中に入ってくる新鮮な空気、オレンジに染まる陽の光。日常に当然としてあったはずのそれを教授することが、今の彼女には大きな幸福と感じられた。
「家まで送ってく。場所、教えてくれるか?」
「はい、お願いします」
 夕日に照らされながら、レヴィナスとレイナは山を降りる。リドは念の為にカグラの護衛に残してきたから、今は二人きりだった。
「今日は本当にありがとうございました。あなたがいなかったら私、もうとっくに死んでいました」
「ん……、気にすんなよ。あそこに俺達がいたのは偶然だったんだから。運が良かった、って思っとけばいーさ」
「それでも、ありがとうございました」
「…………」
 レイナが頭を下げるのを、レヴィナスは見もしない。レイナは、彼が「こんなのは当然のことだから、感謝される義理は無い」と言いたいのだと受け取った。
 彼女の羨望の眼差しは益々強くなり、輝く視線をレヴィナスに向ける。だが彼は、その視線を感じながらも、振り返ることはできなかった。
 そんなレヴィナスの態度には何という高尚な理由も無い。彼は単に、彼女に一目惚れしていたというだけだ。だから、赤い光に照らされて輝く彼女の顔を見るのは、彼にとって溜まらなく恥ずかしかったのだ。

 

 ベイラスの町の南部、南北に伸びる街道から少し逸れた場所にある『銀歌の三ツ星亭』は、おいしいご飯と店主の暖かい心が人気の冒険者の店だ。荒くれ者とならず者がその日の食い扶持を求めて集まるのが冒険者の店の本来の姿なのだが、とにかくここは普通の旅人や町人にも人気のランチメニューを取り揃えた、まるでレストランかカフェかと言った風情の冒険者の店なのだ。
 昼下がり、ランチの客も減った店内のカウンター席で、レヴィナスはぼーっとしながらアイスティーをすすっていた。隣ではリドがホットミルクをおいしそうに飲んでいる。
「ダイチさん、暇」
 相も変わらず愛想の無い表情で、レヴィナスはカウンター内の店主・ダイチに話しかける。
「まあ、たまにはゆっくりしたらいいじゃないですか。今はお二人に向いた依頼もありませんし」
 調理台に立っていたダイチが振り返った。綺麗にカットされた深い茶色の髪が揺れ、天窓から差し込む光に照らされ輝いている。
「んー、そりゃそうなんだけどさ。久々に時間空くと、何していいかわかんねーんだよ」
「じゃあレヴィ、おれとあそぼう!」
「疲れるし退屈だから却下。前に付き合わされた時は、一日中蟻の巣を眺める羽目になったんだぜ。絶対やだ」
「うー……」
 ぷーっと顔を膨らませて足をバタバタと動かすリド。何故かその様子を微笑ましそうに眺めるダイチに口を開きかけたその時、
「すみませーん! お品物の配達にやってきましたー!」
 表の扉に付けられた鐘がからころと鳴り、少女が店内に入ってきた。カウンター席からはちょうど背にする形なのでレヴィナスにはその姿はわからないが、誰が入ってきたのかはすぐ分かった。
「あ……、レヴィナスさん!? あと、リドさんも!」
 少女の声は普段から納品にやってくる時のものと同じだったし、あの遺跡の中でも聞いていた。何より、好きな人の声を聞き間違うはずも無い。
「……よう」
 振り返り、レイナに向けて片手を上げる。顔を上手く動かせない。そもそも、こういう時はどんな表情をすればいいんだろう。
「えっと、こんにちは」
 リドも、おそるおそると言った様に返事をする。こいつのこれは単に人見知りというだけだが。
「二人から話は聞いてますよ。無事で良かった、レイナさん」
「ありがとうございます、ダイチさん! ああ、これが注文の品です。どうも遅れてすみませんでした」
「いえいえ、急を要するものではありませんでしたから。最近アイトリアからの物流も不安定ですしね……」
 納品に来たレイナがダイチと軽く世間話を交わし、それに聞き耳を立てるレヴィナス。それはいつもと変わらない、昼の三ツ星亭のひと時だった。
「それじゃあ、私はまだ仕事がありますからこれで失礼しますね」
「ああ、また話に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。お仕事頑張ってください」
「はい、ダイチさんも。あと、レヴィナスさん、リドさん」
 不意に自分に話を振られて、体が震えた。もしとっくの昔にティーを飲み干していなかったら、きっと盛大に机に零していたに違いない。
「今度また、お店の方にも来てください。私、精一杯御持て成ししますから!」
「……おう」
 それしか答えられなかった。なんかもっと言うことあるだろ何やってんだ俺、などと頭の中で猛反省する頃には、レイナはもう店の外へと向かっていた。鐘が鳴って、彼女が出て行って――
「あ、あのさ!」
 広い店内に響き渡るくらいの声で、レヴィナスは叫んだ。レイナだけでなく、リドも、ダイチも、驚いてレヴィナスを見やる。その視線に気恥ずかしさを感じながら、レヴィナスは頭の中で自分が言うべき台詞を思考し、試行していた。
「えっと、何でしょうか?」
「…………」
「あの、レヴィナスさん?」
「……な、名前」
「え?」
「……そんな、丁寧じゃなくて、いいから。同じくらいだろ、俺ら」
 レイナはぽかんと口を開けて、目の前の憧れの少年を見つめた。レヴィナスは恋している少女から目を逸らし、顔に感じる熱をどうすればいいのだろうか、なんてことを必死に思索している。やがて、レイナはにこやかに笑みを浮かべた。
「……うん! これからもよろしくね、レヴィナスくん!」
「……よ、よろしく、レイナ」
 そうして、レイナが仕事に戻っていってしまっても、レヴィナスはしばらくそうして突っ立っていたのだった。
 訳が分からないと困惑しているリドはともかく、何故かダイチさんの微笑みが、今に限って気に障る。でもそれに文句を言うよりも、今はもう少し、この幸せの残照を味わっていたいと思う。






 





























































































































































































































































 

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