ベイラスの町から北に行くと、大きな山脈がある。どちらかと言うと温暖な南側とは反対に、その北側は冬の期間が長い寒冷地帯だ。一年の天候の大半が曇りか雪、作物も碌に育たない痩せた大地。しかしそこは魔力の地脈が流れる場所であり、数多くの魔晶石が採掘されるとなれば、テッグアールの町が魔術の盛んな土地となるのは必然と言えるだろう。
町の内部は常に魔術で気温が調節され、最近では人工的な太陽までもを設置していると言う。雪の積もる外部から壁一枚を隔てれば、そこは緑が萌える魔術都市なのだ。
一方、南に行けば巨大な湖がある。湖と言っても、南部で海と繋がっている汽水湖なのだから、実質的には海のようなものだ。外国との行き来だけでなく国内においても、湖を通じた水路は重要な運送ルートである。特に、テッグアールが山脈に巨大トンネルを建設してからは、街道一本で先進魔術に触れ上質な魔晶石を入手できる機会を得られるとあって、アイトリア港とその町は大きな発展を遂げた。
しかし街道一本といっても、アイトリアとテッグアールの距離は中々に長い。旧文明の遺跡が未踏のままに残され、未だ知らない魔物達が蠢くその地を何日もかけて進まなければならないとなると、その苦労は計り知れない。
ベイラスの町が生まれたのはそういった経緯からだ。街道上に安心して休める町を、さらにそこを拠点として遺跡群を踏破し魔物の脅威を取り除く。おまけに、遺失文明の手がかりや財が手に入れば学者や学院に高値で売れるのだ。護衛、冒険、魔物の討伐。仕事の数なら腐るほどにあり、結果として、ベイラスは数多くの冒険者や腕自慢が夢を求めて集う町となったのだった。
『ファニカ雑貨店』。南北に伸びる巨大な街道に面したその店の前には、木に白いペンキで大きく店名が書かれた看板。眩しいほどに輝く昼の太陽をを感じながら、レヴィナスとリドは店先に座って菓子をかじっていた。穀物を練って焼いて塩をふっただけの簡単な物だったが、小腹を満たすにはちょうどいい。バリバリと歯から伝わる食感を楽しみながら、街道を行き交う人々を眺める。
着古した服と鎧を纏った、見るからに冒険者風の男。
馬車に大量の本を積んで走らせる、痩せ型の学者。
あちらこちらで客を呼ぶ威勢の良い声が聞こえる。
そんな喧騒の中を、子供が二人ではしゃぎながら通っていく。その後ろを、エプロン姿のおばさんが名前らしきものを呼びながら追いかけて行った。
「へいわ、だなー」
「平和、だな。……なあレイナ、本当にここら辺りなのか?」
「うん、もうすぐ来ると思うの。最近は毎日だもん、皆お店を荒らされてすっごい困ってる」
レイナが持ってきたお茶で喉を潤しながら、依頼内容を再び頭の中で反芻する。
ベイラスの町には現在、警察という物が無かった。最近になって急激に発展したこの町に、国が人員を裂く余裕がまだ無かったのだ。一応自警団も存在してはいるものの、なんせ大量の荒くれ者の住む町なので、あちらこちらで発生する小競り合いのその全てを鎮圧することは適わない。とにかく人手が足りなかったのだ。
こういう時には、冒険者の店に依頼が来ることも多い。つまりは目には目を、ということだ。こういう時、レヴィナスとリドは積極的にその以来を受けることにしている。冒険者の店にだって横の繋がりというのは当然ある。町民から出せる依頼金など高が知れてはいるものの、自分の店に所属する冒険者が悪を犯すのを黙って傍観しているマスターはいないし、そういった輩を追放するのも冒険者の店の基本方針なのだから、結局そういう所から追加報酬が出される訳だ。近隣住民に顔を売っておくのは当然悪いことでは無いし、そして何よりも。
「レヴィナス達だったら安心できるものね。よかった、引き受けてくれたのが二人で!」
初恋の人の前でいい格好をしたいというのは、誰にでもある当たり前の欲求だと思う。
それに報酬も悪くないし人と人との繋がりも大事なんだし、これは決してそれだけの理由じゃなくて、なんて必死に頭を巡らせているところに、
「あぁ!? おいコラ、俺達に向けて何なんだその態度は、えぇ!?」
ドスの聞いた声が聞こえてそちらを振り返った。5人の大柄な男達が、さっきまで客引きをしていた女の子を取り囲んでいた。レイナが顔を強張らせたのを見て、二人は奴らに向かっていく。真っ黒なコートを羽織ったガラの悪い男達がイチャモン付けまくっては大荒れしていく、それは今目の前の光景で間違いないだろう。
「おい、アンタら――」
そうして声をかけようとしたその時、
「そこの野郎共! 待てい、待てえぇぇい!!」
どこからかの大声がレヴィナスの声を掻き消した。レヴィナスも、リドも、男達も、女の子も。その場にいた全員が訳もわからずに声のした方を見やった。街道を挟んで反対側なのだが、そこには誰もいない。
「違う、違う! こっちだよ、こっち!」
視線を上に向けると、いた。二階建ての店の上に、誰かが立っている。
それがどんな奴かは、逆光になっていて良く分からなかった。マフラーが風にたなびいているのがシルエットでようやく理解できるくらいだ。
「ふっふっふ…… 強き力を持ちながら、弱者をいたぶるその所業、神が仏が見逃せど、俺の拳が黙っちゃいねえ! 罪を憎んで人を憎まず。ならば悪しきはその力。今ここで、オレの拳が挫いてやろう! とうっ」
長々と、そして堂々と、なんだか恥ずかしい台詞を垂れ流してからそいつは飛び降りてきた。くるくると宙で回り、
「しゅたっ、そして華麗に着地!」
何故それを口で言う。
逆光が無くなった今、その少年の姿ははっきりと目に映る。しかし、その服装もなんだか理解に苦しむ。
赤いラインの入った黒いハーフパンツに、同じ色使いのスニーカー、というのは普通にわかる。しかし、どうして上半身裸の癖に真っ赤なマフラーを首に巻いているのだろう。暑いのか寒いのかはっきりしてもらいたい。そもそもどうしてあんな高いところにいたのだろう、降りてくるなら最初から登らなければいいのに。わざわざ口で効果音付けたり実況しだすのも全く理解不能だ。
その情景を見ていた全ての人が思った。 『ああ、こいつは、かわいそうな子なんだな』、と。
「なんだオイ、俺達はバカには用はねぇぞ!」
「そうだ、バカはとっとと帰ってねんねしてな!」
「バカはママのおっぱいしゃぶってるのがお似合いだぜ!」
「何だよ、うるっせえんだよぉどいつもこいつも! 何がバカなんだよ、こんなにカッコいいのに!」
どうやら美意識が根本からずれているらしい。少年は怒りで顔を紅潮させているが、確かにバカじゃないだろうかとは俺だって思う。……いや、今はそんなことは問題じゃない。
「おいアンタ、バカなことしてないでとっとと逃げ――」
「あんまりナメた口聞いてると痛い目合わせんぞ、ゴルァ!」
「そうだそうだ! ようし見せしめだ、まずはあいつからタコ殴りだァ!」
レヴィナスの声はまたしても阻まれてしまう。男達が少年目掛けて駆け出した。体格180cmはあろう大男達だ、ただの子供が一人でどうにかできる相手では無い。
「雷よ――」
レヴィナスが術式を組もうと詠唱を開始するのと、
「……周天」
男の一人が思い切り吹き飛ばされるのは同時だった。少年と男はゆうに10mは離れていたはずなのに、その距離を一瞬で縮めて男に蹴りを入れたのだ。吹き飛んだ男は店内に突っ込むと、ハムやらソーセージやらに埋もれて気絶した。どうやら突っ込んだその先は肉屋だったらしい。
誰もが何が起こったか分からずに立ち尽くす。そのコンマ数秒、少年だけがその動きを止めない。近くにいた二人目の腹に掌底を叩き込めば、突風に吹かれたかの如く巨体は浮かび上がった。三人目の体をも巻き込んで、遠くの地面に叩き落される。
激昂して殴りかかってきた四人目の拳を交わし、即座にカウンターでパンチを入れる。血と歯を零しながら、即座に気絶した。五人目は臆病風に吹かれて逃げ出そうとするが、そいつが身を翻すのと、その顔が地べたにへばり付くのは同時だった。
「…………」
本当に、一瞬だった。それを見ていた誰もが言葉を発することが出来ずに沈黙する。
そんな不自然な静けさの中、
「これに懲りたら、次は世のため人のためにその身体を使うんだぜ。わかったか?」
その少年だけがただ一人、手をはたきながらそんなことを言っていた。
「そういう訳で、そいつが全部片付けたから。俺達は何もしてないし、報酬もいらない。全部そいつにやってくれ」
「はあ……」
時刻はまだ3時、昼下がりの柔らかな光が差し込む『銀歌の三ツ星亭』店内で、少年は忙しなく食事をガバガバと胃の中に放り込んでいる。穏やかなこの空間において、その少年だけがなんとも不釣合いで忙しい。
そんな汚い食べっぷりを、レヴィナスとリドはカウンター席から眺めていた。なんせテーブルは料理が山ほど乗った大皿で埋め尽くされていたから、彼と一緒に席を囲むことができなかったのだ。いつもの様にアイスティーとミルクをちびちびとすすりながら、掃除機を思い浮かばせる勢いで料理が吸い込まれていく様を見つめる。リドは目を大きく見開いて感心していたし、レヴィナスは驚きを通り越して呆れ果てている。
それでもレヴィナスが目を離さなかったのは、その豪快かつ下品な食事風景があまりにも珍妙だったからという訳ではない。むしろ、見ているのは少年そのものだ。
彼の身長は精々160ちょっと、体格で明白に劣る彼が五人もの巨漢を一人で相手取り、そして圧勝した。それを可能としているのは、ひとえに鍛え上げられたあの体か。
決して筋骨隆々としているのではない。しかしその身体を形成する筋肉はしなやかで、そして無駄が無い。動きを阻害せずに力を最大限に引き出せるように作られた肉体は、書物で得た知識にすぎないのだが、武術を学ぶ者のそれだろう。徒手空拳を修練する者は同時に、生命エネルギーを操ることで肉体の動きを円滑にする術も修行するという。ただの蹴りや掌底であそこまで人が吹き飛ぶのは、気功術の応用なのだろう。どちらにせよ、彼の体と技術は直向きで弛まぬ努力でこそ成し遂げられない境地にある。言動こそあまり頭はよろしくないが、その鍛錬の証は確かなものだった。
「ええっと、レクさん、と申しましたよね」
「もがもが、もごもご、ぐびぐび、ごくん。……そうだぜ、レク・シュエンがオレの名前だ」
料理をあっという間に食べつくし、それをコーラで流し込んでからダイチに向き直る。大きくなった腹をさすりながらそう言った後、今度はダイチが運んできたデザートに手を付け始めた。ワッフルを一口で口の中に入れ、ハムスターを連想させるほどに大きく頬を膨らませる。そしてすぐにコーラで胃の中に押し込んだ。
「はい。それでレクさん、報酬のことですが」
「ん、いらないよそんなん」
「え?」
「別に俺金儲けの為にやったわけじゃないし、この体は人助けの為に使うって決めたんだ。そんなんもらっちまったら、何だか申し訳ないや」
レクは頭を掻きながら照れくさそうに顔を逸らす。しかし、ダイチが浮かべるのは困惑の表情だ。
「はあ……。ですが、どうか受け取ってもらいたい。これは皆さんの善意ですから」
「だからいいんだって! ……あ、じゃあしばらく飯と宿貸してくれるか? 最近こっちの方に来たから、泊まる場所無くってさ」
「ああ、そういうことでしたら構いません。部屋は余っていますからね」
「うっし! 交渉成立な!」
嬉しそうに手を上げるレク。ダイチもそれに答え、二人はハイタッチを交わした。そんな様子を、どことなく違和感を持たせる眼差しで見つめるレヴィナス。そこに含まれている感情は、レクには正確に理解出来なかったものの、あまり気分のいい視線では無かった。
「何だよ、お前。ずっとこっち見ててさ」
「ん……。いや、気づいてないならいいんだけどさ」
「?」
一体何のことなのか、とレクが追及しようとしたその時、
「すみませーん、郵便ですよー!」
来客を告げる鐘が鳴り、郵便の配達員がやってきた。時計を見ても、夕方の配達の時間には早すぎる。
配達時間外の郵便。それはつまり、緊急を要する手紙が飛び込んできたということ。そしてここはれっきとした冒険者の店。つまり、
「……すみません。皆さんに、依頼したい事案があります」
手紙に目を通したダイチは、真剣な面持ちで三人に顔を向けた。
ベイラスの町を東に行けば、なだらかな山脈と鬱蒼と生い茂る樹海が広がっている。そしてそこは、ベイラス周辺の中でも特に旧文明の遺跡群が連なる、歴史家達にとってすれば正に宝の山だ。町近郊の遺跡は大概踏破されているのだが、奥地に行けばまだ見ぬ迷宮が多数残されている。
遺跡の内部には往々にして魔物が住まうものだ。閉鎖された空間、陽光が入らず、人の思念が多数残された場所。魔物が巣食うにはうってつけだろう。
だからこそ、ベイラス周辺の遺跡は全て探索されつくされ浄化作業も完了している。魔物が町に這い出してくることが、少しでも無いように。
だが、そのような場所を好むのは何も魔物だけではない。人が滅多に来ない入り組んだ建物となれば、そこは悪党が寝座とするのも当然と言えよう。学者達が組織を作り対処に当たっているとはいえ、全ての遺跡を管理し招かれざる客を駆逐するのは容易ではない。
三人は今、森の中にそびえる古びた塔の様子を伺っている。レンガ造りのそれは、所々にひびが入り、蔦が絡み、若干傾いてすらいる。近くに寄ればもっと詳細が分かるのだろうが、今は山のより高いところから、木々の合間を縫った限られた視界で様子を観察しているだけだ。
そんな場所を、こんな場所からわざわざ見張っているのは、レクに倒された巨漢共をしょっ引いていった自警団からの報告があったからだ。奴らを尋問した結果、この塔に自分達のアジトとボスがいるらしい。
「でもって、そのボスやらがまた厄介な奴なんだよなぁ……」
指名手配犯ウィキット。魔術に長け、知略に富んだ冷徹漢。数々の罪状に問われているが、その中でも最も数をこなし、かつ彼が精通しているのが「拉致」だ。
都市や国の有力者・実力者が、ある日忽然と姿を消す。魔術師がその気配を探知してみようとしても行方は知れず。代わりに残される魔術の気配は、凶悪にして悪辣。常として自らの痕跡を隠そうなどとはせず、それでいて常として行方を追うことは適わない。
名前も素性も知れない大悪党。いつしかそいつは、邪悪な魔術師『Wicked』と呼ばれるようになった。そんな輩が今、あの中にいるのだと言う。
「何を躊躇っているんだ? そんな悪い奴ならとっととやっつけないと、また被害が出るじゃないか!」
「落ち着けよ、状況を整理してみろ。1、街中で大っぴらにイチャモン付けてたデカブツのボスがwickedである、これは真か偽か」
「はぁ? 何言ってるんだ、オレが伸した奴らがゲロったんだろ。だったらそういうこと何じゃないのか?」
「今まで数々の実力者をさらい、痕跡こそ残せどその姿を現すことは無かった臆病者。そんな奴が、あんな考え無しの脳筋野郎を手下に置くってこと自体が俺には理解できねーな。公衆の面前で暴れまわったら捕まるのなんて当然、だったら自らの事が知れ渡るのもまた道理。そして追っ手が差し向けられるだろうというのも自然だろ」
「……つまり、何が言いたいんだよ?」
「よーするに、これは罠だろ。何が目的かはわからないが、冒険者をあの塔に誘き寄せたい奴がいる。そいつがウィキットかそうでないかは別としてな。そんな所にバカ正直に突っ込んでいくなんて無謀にも過ぎるね。そして2つ目、俺達に任された依頼が何だったか言ってみろ」
「……あの塔の、偵察と監視」
「そうだ。何しろ事の真偽が明確で無いのに人員を裂く訳にはいかない。だけど、ウィキットと聞かされて何もしない訳にもいかねぇ。つまりここは、小回りの効く少人数でウィキットの存在を確認するのが最善だ。何しろ、今俺が行使している『隠蔽』魔術はそう言った目的には最適だ。リドはすばしっこさにかけては一流だからすぐ町に戻れるし、お前の実力だったら俺と強力すれば術師相手でも少しは持ちこたえられるだろうしな」
「けどさ、そいつはいつ尻尾を出すかわからないんだろ? モタモタしてるうちに次の被害者が出たらどうするんだよ」
「だからって、何の情報も無いのには動きようがねーだろうが。……けど、情報は今掴んだ。少しだけどな」
「へ?」
「それ以上、塔に近寄ろうとするなよ。……結界の気配を感じる。その性質までは見抜けないけど、ここより向こうは高密度の魔力で満ちているみたいだ」
レヴィナスはいつの間にか首にかけていたゴーグルを装着していた。魔力の流れや構築のされ方を可視させるこれは、この先の空間が通常の世界とは在り方を異にしていると告げている。
「それなのに、違和感は殆ど感じさせない。魔術師の俺ですら、これだけ近づいても殆ど感知できなかったんだ。これを張った奴は相当の術師だな」
「だったら、もう決まりじゃないか! 早く行かないと……」
「だからってそれがウィキットだと明確に決まってはねぇよ。まあ、無断でこんなところに結界を張る奴は、正体が何であれ碌な人間じゃねーな。……おい、リド」
二人の話が退屈だったのか、リドは木の根元に座って眠りかけていた。それでも、レヴィナスの声を聞けば即座に飛び起きる。
「急いでダイチのとこまで行って来い、あとはダイチの言うことを良く聞くんだ。できるな?」
「おう! まかせろ!」
そう言うか言わないかの内にリドは走り出していた。軽やかな動きで木々の間を飛び回るように駆けていく。
「これでしばらくすれば増援が来るはずだ。そんで、そいつらと一緒にあそこに突入する。これでいいだろ?」
ゴーグルを外して大きく息を吐くレヴィ。レクも納得しかけたのだが、
「――――!」
塔の反対側から、人が現れた。遠目で詳細は分からないが、シルエットや立ち振る舞いから細身の男性だろうと見て取れる。
彼は腕に抱えてた何かを見つめ、体を震わせている。それは、笑っているのだ。耳障りな空気の振動が伝わってくる。そして、その胸に抱かれているのは、
――血を流して、瞳を閉じた、女性の姿。
「レク、どこ行く気だ」
「……決まってるだろ。あの女の人、助けに行くんだよ」
「人の話聞いてねーのか。増援を待つんだよ、たった二人で敵陣に突っ込めるか」
「ッ……」
大きく目を見開き怒りを露わにするレク。対照的に、レヴィナスの態度はなんとも冷静だ。
「けど、あの人助けないと。出血してたぞ、死んじゃうじゃんか」
「だからって考え無しに特攻するなら、今度は俺達が死ぬな」
「やってみないと分からないだろ、そんなの! オレらが行って助けられるかもしれない。助けられなくても、あの野郎の気をあの人から逸らすことができる。戦闘になっても俺達なら少しは持ちこたえられるって、そう言ってただろ!」
「敵の戦力が分からないんだ、確信はできねーよ。いいか、結界ってのは作成者の世界の一部だ。規模や術者の能力にも寄るけどよ、これだけの上等な結界に入るってのは、それは術者の腹の中に飲み込まれるのと変わりゃしねー。飲み込まれた食料はゆっくりと消化されるだけだ。暴れてみれば腹痛くらいは起こしてやれるかもな。けど、腹を突き破って出てくるなんて芸当、御伽噺の夢物語と同じことだよ」
レヴィナスの説明は論理的で正しいのだろう。でも、レクはそんなことで怯むことは無かった。彼は何があろうとも、あの傷ついた人を助けなければならなかった。
……それは、一種の強迫観念だった。オレはあの人を助けなければならない。オレはあの人を助けなければならない。頭の中に響く命令は激しさを増し、心は早鐘を打つ。玉のような汗が額を伝って落ちていく。こんなことに時間を使っている猶予なんて、一刻だって残されていないのに。
「だからって、怪我してる人を放っておけってのか!」
「だからって、俺はアンタのバカげた偽善に付き合う気なんてさらさら無いね」
「はぁ!? お前、何言ってるんだ!?」
「ああ、やっぱり気づいちゃいねーのか。いいぜ、状況整理3つ目だ。俺は、アンタのその心構えが気に食わない。アンタと一緒に突っ込むのは賛成できかねる。確かに、人を助けるのは素晴らしいことだよ、どんどんやって然るべきだね。けどよ、自覚の無い善意の押し売りは人を滅ぼすぞ。他人も、自分すらもだ」
「ッ……、お前、何を……」
――こいつは、何を言っているんだろう。
「アンタのその善意が逆に他人の迷惑になるって、一瞬すらも思わねーのか? その善意が結局の所自分にしか向けられていないって、どうしても気づかねーのか? 昼だってそうだ。あんなに派手に吹き飛ばさなくたって、あんなのを鎮圧する手段なんていくらでもあったはずだ。それなのに、アンタは格好付けたいってだけであんなパフォーマンスを演じてみせた。おかげで破壊された店もあったよな」
――ナニを、イっているんだろう。
「報酬の金を受け取らないのだってそうだ、あれはお前が助けた人達の善意だろ。そもそも等価交換ってのはそういうことだ。ある行為や物品の供給に対して、同等の行為や物品で恩を返す。冷たい関係だなんて言う奴らもいるが、俺はそうは思わねーな。だってそれは、物理的な交換でありながらも同時に精神的な交換でもあるんだから。一方的に感情を押し付けておきながら自分は相手の感情を受け取らない、意に介さないなんていう事こそ、人間の関係として歪んでいる。そうやって人と人との繋がりに綻びが出来れば、いずれそれは大きな穴を空けるだろうぜ」
レヴィナスの発言は、レクが理解するには余りに抽象じみている。それでも、その一言一言が心を捉えて話さない。頭を、胸を、ハンマーで殴打されている感覚。
――こんな下らない言葉を聞いてはならない。
殴られる頭に、響くのは心の声。
――オレは正しいことをしている。だから、ダレカの言葉に耳を貸す必要なんて無い。そんなものはいらない。
でも、なんでだろう。睨みつけてくるこいつの視線から、目を逸らせないんだ。オレの体は、こいつの言葉を、必要としている……?
――そんなものはいらない、いらない、いらない!! 走れ!!
「――――!!」
声に急かされ、レクは走り出した。呼び止めるレヴィナスの声など、聞こえないふりをして。
途端、体を包み込む生温い空気。それは舐める様に肌に絡みつき、体の自由を奪い取ろうとする。
「……周天」
彼が学んだシュエンの気功において重要なのは、まずは呼吸法。そして心の持ち方だ。
呼吸、『呼』とは気を出すことであり、陽は開くものである。『吸』とは気を入れることであり、陰は閉じるものである。
吐故納新、古きを吐き新しきを納める。呼吸はこの世に命を繋ぎとめる何よりも大切な行為。呼吸を正しきものとすることで体を正す。呼吸を繰ることで陰陽を司る。それこそが気を操るということの本質。
そして正しい呼吸のためには、乱れ無き心を必要とする。精神の在り方は身体に及ぶのだから。レクは未熟故、心を常に平静に保つことができない。だから彼は、自身に”スイッチ”を作った。
その言葉を呟けば、余計なことはするりと抜け落ちる。心を無にし、ただ目的の為に体を使う。今や彼の体は、戦闘の為の機関に過ぎない。
生命エネルギーを全身に巡らせる。それだけで彼の体は魔術に対抗できる。足から気を放てば、その体は大きく跳躍した。塔へと辿り着くのはあと一瞬だ。あの男から女の人を奪い、すぐに逃げ去る。それだけでいい。
だが、
「……うぐっ!?」
入り口を目前にして、彼の体は地に落ちた。みっともなく地面を転がり、泥と血にまみれて横たわる。
おかしい。体が動かせない。頭は動くのに、首から下が自分のもので無いようで。
「……ほう、まさかこの結界の中をここまでやってこれるとはね。君の体はその魔力抵抗にも目を見張るものがある」
かろうじて上にした瞳に映るのは、痩せ細った男の姿。近くで見ればもっと分かる。覇気の無い肉体、生気の無い表情、その一方で爛々と輝く紅い瞳。
レクは一目で理解した。こいつは、おかしなものだ。
「君は私を見るのが初めてなのだから、まずは自己紹介をしようか。初めまして、私はウィキットと呼ばれているものだ。本当の名前は必要無いだろうから言わないでおこう」
体がおかしいのならば、声すらもおかしい。あいつは口を動かしていない。耳に届く大気の振動は、この空間全体から発しているように思える。上から、横から、下から、背後から。声が、彼の意識に浸透する。
「だが私は君を知っている、あの戦いぶりは実に見事なものだったよ。まだ若いのにあれだけの実力者とはね、久々に上質なモノを手に入れた。遊び半分で仕掛けたおもちゃにしてはいい働きをしたようだ」
若いような、老いているような、高いような、低いような。意味不明で不可思議なその声は、発声される度にレクの頭を掻き回す。意識が朦朧とする。頭の動きが鈍る。
「彼女も案外あっさりと手に入った、今日は実についている。こんなに早く目的が達成できるならば、わざわざ大仰な結界など制作せずともよかったな。……ああ、君はしばらく眠るといい。次に目覚めるその時には――」
それ以上は聞こえなかった。ぼんやりと霞む視界に飲み込まれて、レクはその意識を手放した。
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