『こんにちは、初めまして』

 だ、れ

『そんなのどうだっていいじゃない。それよりどうかしら、調子の方は?』

 えっとね、ひどい、の 

『ふぅん。どういう風に?』

 いたい、のくる、しいの、おし、りいた、い、おと、このひとが、やだ

『ふーん、そうなの』

 どうして、こん、なこと、に 

『そうねえ。何でもあなたの家族をみ〜んな殺しちゃった人がいたみたいよ。ひどい話よねえ』

 え

『だからあなたは身を売られて、こうしてきったないおっさんにケツ掘られてるんですって。みじめで、情けなくって、どうしようも無い、家畜以下の男婦。それが今のあなたなの』

 え    あ       あ                あ

『……ねえあなた、これからどうしたい?』

                                         え

『こんな所で、こんな風に一生を終えてしまうなんて、本当にそれでいいの? 誰にだって幸せになる権利はあるはずでしょう、なのに』

 

『いいのよ、無理しないで。あなたはこんな不条理の中でよく頑張ったわ。何年も、何年も、つらかったわね。』

      あ    う       うう

『もういいの、我慢しなくていいの。大丈夫よ、あなたを救ってあげる。この下らない現実から』

 どう やって

『簡単な話よ。大丈夫、私がちゃんと教えてあげるから――』

 


 枕元に置いていた人形を手に取る。握った手から伝わるその柔らかい感触は、いつもぼくを励ましてくれる。
「おいガキ、何やってやがんだ?」
 男の人が、何かを言っている。
 汚い、怖い、辛い、恐ろしい、えげつない、不潔、愚劣、醜悪、下品、姦悪、奸譎、声。
 でも、今は、なんだか何にも感じない。
 でも、今は、頭に響くお姉さんの声に従って、
 まず、人形の頭を、思いっきり引きちぎった。
「……へぷぁ」
 ああ、ぼくの弱っちい力じゃ半分くらいしか破けなかった。
 だけどそうしたら、なんだか後ろから変な音がした。ぼくは不思議に思ったけれど、それは一先ず置いておきなさいって言うから、うん、続きをするんだ。
 人形の頭から零れ出す綿を、丁寧に丁寧に取り除いていく。丁寧に、丁寧に。一つも残さないように。
「あびゅぅ、びぅ、ひゅぅ」
 ワタをほじくる。中身をかき出す。柔らかいそれを掘り崩す。抉り取る。こねくり回す。
 ぐちゃぐちゃ、こりこりと、小気味のいい音がぼくの脳を犯していく。
 あれ、本当だ。すぐに楽になった。ぼくの体に覆いかぶさっていた肉の重みが、もう無くなった。
 叫ぶ怒る喚くひどい声も、反吐の出るような匂いも、悲しくなる寂しくなる泣きたくなる痛みも、もう、しない。
 それがなんだか嬉しくなって、それがとても安心できて、もっと、もっと、手を動かして。
 目を抉る。耳を削ぐ。鼻を貫く。口を引き裂く。顎を潰す。額を砕く。丁寧に、丹念に。
 頭を潰し終わったならば、今度は体。しっかりワタを取り除いて、磨り潰す。
 ぐちゃり、ぐちゃり。ずぶずぶ、びちゃびちゃ。ごり、ごり、ねちゃ、ねちゃ、どくんどくん。
 ねえ、これで、助かるのかな。
 終わらない終われない終わりたいこの夢からユメから悪夢から逃げられるのかな。
 怖いんだ。見ているんだ。悪いモノが見ているんだ。ぼくの上から、下から、隣から、中から、ぼくのことを憎んで恨んで怨んで裏んで憾んでいるんだ。そうじゃなかったら、だってこんなのって絶対嘘、ぼくは汚くない汚れてなんかない綺麗で幸せに奇麗なぼくはこれが現実、長い夢を見ているんだ見ていたんだ痛んだだってきっとこんなにおかしくて犯しくて病んだ止んだ夢なんてなんて悪い割るい夢が妄想が幻想が空想虚実空実現実におはようもう朝なんだ太陽だってとっくに起きて昇ってお父さんとお母さんとぼくとああ二人はどうして起こしてくれないのどうしてもうお腹だって空いてるはずなんだから食事にしよう三人でお母さんのおいしい料理が食事洗濯掃除だってなんでも一緒だってそれがこの覚めない醒めない夢がなんで終わらせて早く早く早く逃げたい帰りたい戻りたい止めたい助けて怖い苦しい助けて辛い寂しいなんでどうして嫌だよ助けて助けて早くここから出して助けて助けて助けて助けて助けて 


 『ごめんなさいね、助けてあげる気なんて最初から無いんだわ。だってほら、私はそう、あなたを壊すために来たんだもの』

 


 少年は、その部屋の真ん中で呆然と座り込んでいた。
 その手の先には、壊れた人形の残骸。白く、白く、綿を散らして。
 その瞳の先には、壊れた人間の残骸。赤く、赤く、腸を散らして。
 血の匂い。臓腑の匂い。濁った空気が鼻腔に絡み付いて離れない。
 てらてらと濡れる臓物。色鮮やかな肉片。時折覗かせるのは、骨の欠片の白さだろう。
 かつて人であったはずのそれは、今や滑稽なオブジェでしか有り得ない。なんて気味の悪い、出来すぎたアート。
『もう気が付いているはずでしょう? ダメよダメダメ、目を逸らしたって何の救いにもなりはしないんだから。現実はちゃんと見つめなくっちゃ』
 頭に響く少女の声。ほんの数刻前までは救いの言葉だったはずのそれは、今や悪辣な響きを持って彼に襲いかかる。
 そう、これを創作した芸術家とは、紛れも無く自分自身。
『そうよ、それはあなたが壊してしまったの。殺してしまったの。不思議な話よね、人間はこの世界の頂点に立つ生物だって言うのに、布と綿で出来た人形と同じくらいに脆くて弱っちいんだもの』
 震える手を伸ばして、動かして、眼前の現実に触れてみる。
 ぶにぶにと不快な触感。不自然な温もり。流れ出る体液。触れた指先が、赤く汚れた。
『そういえば、あなたのお母さんとお父さんも殺されちゃったのよね。さぞかしひどい有り様だったんでしょうねえ、二人の死体は』
 あの赤い夜が思い起こされる。いつだって夢に出る、あの惨劇。
 お母さんとお父さんも、これと同じだった。これが動いて生きていたなんて思えないほどに、ぐちゃぐちゃで。大好きだったあの笑顔も、跡形も残らずぐちゃぐちゃで。
『あれと同じことを、今度はあなたがしちゃったんだ。バラバラに、無残に、みじめに、ざっくりと』
 その言葉の一つ一つが、彼の頭に、心に、突き刺さり、傷つけて、引き裂いて。
 心だって涙を流す、血を流す。亀裂が入って、穴が開いて、悲鳴を上げて、段々と大きくなって、がらんどうだった心に闇が満ちて、何もかもをドス黒く染め上げて、
『この人殺し。お前なんかが、助かるはずが無い。お前は、絶対に助からないんだ』
 紡がれた言葉の刃が、心の臓腑に突き刺さった。
 

 


 古色蒼然とした外装から見て取れたうらぶれ様とは裏腹に、内部は整然としたものだった。
 玄関はそれなりの大きさのホールになっており、受付に初老の女性が座っている他には調度品等は一切見当たらない質素なものだ。そこからは廊下へと伸びる通路と、二階へと続く階段がある。ざっと見渡してみても、確かにその老朽こそ隠しきれてはいないものの、塵や埃の類は殆ど見受けられない。細部にまで掃除が行き渡っている。
「ああっ! お客さんの、すっごいい!!」
 まあヒビの入った壁や、立てつけが悪いのかきちんと閉められていない扉は、もうどうにも仕様が無いのだろう。部屋の内部から漏れ出す女の嬌声は、外へと漏れ出していたものよりも一段大きく聞こえる。
「おうふ……」
「……何、変な声出してんだよ、バカ」
「いや、だって、つーか、お前だって顔真っ赤じゃん……」
「てっ、適当な事言いやがんな! 真っ赤になんかしてねー!」
「おいガキ共! ここは遊び場じゃないんだ。冷やかしなら帰んな!」
 痩細ったその身体からは想像も出来ないくらいの大声が一喝した。受付の老婆がレヴィナス達に冷たい視線を向ける。しわがれたダミ声と皺のよった目元、心底うんざり気にこちらを見やるその態度は非常に癇に障るものだったが、子供が3人で売春宿の玄関でまごまごしていたならば、こうした態度を取るのは当然というものか。
 レヴィナスは気恥ずかしさを誤魔化す様にかぶりを振る。そうだ、俺達は遊びに来た訳でも冷やかしに来た訳でも無い。
「レヴィ、こっち。……すごく、やなかんじだ……」
 リドが直感で何かを感じたのだろうか。そういえば、入った時から二人とは別の意味で落ち着きが無かった。居ても立ってもいられなくなったのだろうか、階段を何段飛ばしで駆け上がって行った。
「この……勝手に入るんじゃない、クソガキッ!」
 耳障りな怒鳴り声を後ろに、二人もすぐに後に続いた。
 が、踏みづらに足をかけた瞬間、後頭部を鈍器で殴打されたかの様な錯覚が彼らを襲った。
 頭痛、眩暈、吐き気、そして何ともおぞましい不快感。
「…………!!」
 二人は顔色を変え、即座に走り出す。ギシギシと豪快な音を立てながら進む。殆ど朽ちかけた階段は今にも底が抜けそうなのだが、そんなことも気にしてられない。大地が回転しているかの様な眩暈が、胃の中の物を全て流転させるかの様な嘔吐感が、踏みづらを鳴らす度に激しさを増していく。
「なあ、これって何だ? もしかしてさっきの子供が? なんでこんなひどいことになってんだよ!?」
 階段を上りきり、今度は廊下を走り出す。リドの姿はもう見えないが、肌をさすかの様なこの嫌悪に身を包まれて、その根源の居場所が分からないはずが無かった。
 レヴィナスは固く歯を食い縛り、そして願う。どうかこの最悪の予想が外れてくれと。

 


 まず、その部屋は暗かった。
 スラムの真ん中に建てられた家に当然電球などある筈も無く、部屋を照らす光はひび割れた窓から差し込むくぐもった光だけ。外が曇天なのだから、その明かりは余りに乏しく心細い。それでも、その部屋の惨状を脳に留めるには十分過ぎる程なのだが。
 次に、その部屋は散らかっていた。
 机や椅子は一つ残らずひっくり返り、玩具やら潤滑油やらが散乱する。まるで地震が来た後の様な有様だが、この部屋の役割を考えるならば置いてある家具や道具は非常に少なかったので、全くどうでもいい所で幸いであったと言えるかもしれない。
 そして、その部屋は赤かった。
 赤い血が、ベッドシーツを真紅に染め上げている。赤黒く染まるベッドの上に、大量の肉と臓の塊。作られてからそう時間は立っていないのだろう、それは液体を滴らせぬらぬらと光を反射させる。もしそっくりそのまま摘出されている心臓が鼓動を止めていなかったなら、まだそれが生きているのだとすら思えるほど新鮮だ。
「な、何だいこりゃあ……」
 レヴィナス達を追って上がってきたのだろう、いつの間にか彼らの後ろには先程の老婆が立っていた。室内のその凄惨さに貧相な顔が更に醜く歪み血の気を失い、目を限界まで開ききって震えている。
「どういうことだ、シェーレ! アンタ、またとんでもないことやらかしたのかい!?」
 シェーレと呼ばれた少年とは、部屋の真ん中で座りこんでいるあれだろうか。
 小さな体躯とくしゃくしゃの青い癖毛はさっき見かけたそのままだ。しかし、その瞳の色は明確に異なる。どの様な心情の色も揺らぎも無い『虚無』だけだったその眼は、今や歴とした感情に彩られている。その色は暗く、黒く汚れ、そして痛ましい。
 風が吹き荒れる。室内をかき回す様に、彼の周囲をゆっくりと巡る。血と肉の生臭さが部屋に蔓延し、ひどい悪臭に虫唾が走る。
 その風を起こしているのは、部屋の四方を飛び回る3つの幽霊。
『ゔゔヴア゙ア゙あ゙ァ゙……』
 響かせる叫喚、蠢く厭忌。腐敗臭と共に駆け巡る怨嗟。
 それは幻覚なんかではありえない。肌に突き刺さる凄絶な負の感情は、正しく人間の思念の具現化。
「黙ってないで何とか言ったらどうなんだ、気味が悪い! ああ、こんなことやらかして冗談で済むとでも……」
「バアさん、今は黙れ!」
 レヴィナスの怒号が飛ぶその数刻後、
「う、……うわぁぁああああ!!!」
『あ゙あ゙あ゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!』
 少年の絶叫、霊達の咆哮。放たれたエネルギーは強大で、空を裂き大地を揺るがす。このような茅屋が耐え切れるはずも無く、数十秒ほどで呆気無く倒壊してしまった。

 


「うわぁぁ……あぁあ……」
 涙を流しながら少年は歩く。幽霊共を引き連れて。
 一歩踏み出すその度に地面が揺れ、建物は崩壊する。
 轟々と叫び狂う風。家を、町を、空を塗りつぶす漆黒。寂寥の涙が地を砕き、寂寞の慟哭が天を穿つ。
 人々は逃げ惑う。崩落に巻き込まれたく無いのは当然、しかし何よりも、奈落の底にたゆたう如き悪意に刺咬されて気味の良い人間などいるはずもない。
 レヴィナス達は途方に暮れてそんな彼を見守っている。
 おかしい、絶対におかしい。
 レヴィナスの頭を動かす、強い疑問。
 人間というのは、絶対的な絶望と対峙した時、自らの精神を守る為にその心を壊死させることが多々ある。
 何も無ければ、何も苦しむことは無い。
 何も無ければ、何も痛むことは無い。
 あの少年は正にその通りだった。彼を取り巻く環境というのは、レヴィナスにとっては想像の域を脱すことはできないのだが、それは凄惨なものだったのだろう。自分よりも小さな子供が売春宿で体を売る日々。大人達の欲望と悪意に体を抉られる感覚など知り得ないし知りたくも無いが、それは心を空虚にさせるのに十分であるはずだ。
 だからこそ、解せない。今、あの少年の心にはありったけの闇が詰め込められている。矮小な体躯にはおよそそぐわない、膨大な負の感情。この短時間でこれだけの闇を満たす、一体何があったというのだろう。
 呪術師はその感情を現実に投影させる力を持つ。なのだから、最も危惧すべきが今の状況だ。
 感情の暴走。自らの心を抑制できずに、好き勝手に暴れまわる。それは『のろい』『まじない』と言った域にすら入らない、只ひたすらに内から外に溢れ出す力の奔流。
「ああ、全員無事かい? そりゃ良かった」
 レクに抱えられて脱出した老婆は、この宿の売女達を確認していた。まだ昼なのだから満員であるほど人は入っておらず、少年以外の全員は一階に固まっていたのだという。
「なあ、あの子供に一体何があったんだ? こんなの、絶対おかしいだろ!」
「そんなこと、あたしらが知る訳無いだろう!? こっちが聞きたいくらいだよ、気持ち悪いったらありゃしない!」
 レクの質問に吐き捨てるかの様に忌々しげな返答を寄越す老婆。その顔は恐怖と怒りに引き攣っている。
「全然、なーんにもわかりゃしないよ! あの親無し子が来てからずっとそうだ、とにかく全く気味が悪い! あいつの周囲の物は勝手に動く割れる! 怒鳴っても殴っても何にも無表情! いつも不気味な人形なんて抱えやがって、商品価値が無かったらとっくに追い出してるさ! ああ、男のガキってのは奇妙な趣味の奴には需要があったからね。ほーんとにそれだけなんだよ、関りたくも無いね!」
「…………!!」
「まあ構いやしないさ、もうあんな奴うちに置いておけるもんかい。そのうちに盗賊ギルドの暗殺者が来て、きっちりさっくり殺してくれるだろうよッ」
 言いたいだけ言ってしまえば、あとは呪詛の言葉を並べ立てながら他の『商品』達と一緒に逃げていってしまった。
 今この場に残っているのはレヴィナス達と、どこへ行くでも無くただ歩き回る少年が一人。
 しかし、少年の姿を直接見ることは最早叶わない。見ただけで怖気が体中を走り回るかのような、そんな暗黒に覆われてしまっているのだから。
 そして、あの荒れる闇と鳴り響く風こそが、少年の心そのものなのだ。
「……レヴィ、どうすりゃいいんだ?」
 真剣な面持ちを崩すことなく、リドが尋ねる。隣のレクも同様だ。
「一番現実的な案は、あいつの自滅を待つことだな」
「じめ、つ?」
「ああ。今はあいつの中の感情が暴走してるから、その心象が現実に投影されちまってる。だが、同じだけの感情ってのはそう長く続くものじゃねーだろ? つまり、待ってれば勝手に収まる、そうでなくとも暴れるあの力は弱化するはずだ」
「それはどんくらい時間掛かるんだよ、悠長に待ってなんかられないぞ!?」
 レクが慌てるのも当然だ。こうしている間にも次々と町は破壊されている。
「そんなんダメだ。今すぐ助けなくちゃいけないんだ」
「おい、レク……?」
 その表情は、真剣というよりはむしろ鬼気迫る、とでも言った方が正しいだろうか。歯を食い縛り、その瞳には決意の炎が赤々と灯っている。
「だってあいつ、言ってるじゃんか。助けてくれ、って。そんな奴を放ってただ眺めてるだけなんて、そんなのどうして出来るっていうんだよ?」
「ちょ、ちょっと落ち着けよ。今別の方法考えてるけどよ、どうしたって他に方法が見つからねーんだよ。なんせ、呪術師なんてもの自体が一部の民族や部族で祀られる様な特別で珍しい存在なんだ。そんなのが自らを抑制出来なくなった時の対処法なんて、どの文献にも……」
「どこの誰が書いたか分かんない文献なんて関係あるか! とにかくダメなんだ、あいつを放っておいたらいけないんだよ!」
「あ、おいっ!」
 それだけ吐き捨てると、レクは走っていってしまった。目指すは当然、悪意と黒闇の渦巻くその中心。曇天の暗がりに、真っ赤なマフラーをたなびかせて。
「はあ……。あいつ、結局やることは何にも変わってねーのな」
「なあ、レヴィ。おれたちも、いこう?」
 リドの小さな手が、レヴィナスの手に触れる。
「……何をどうすりゃいいかも分かんねーのに? 家とか物とか一杯飛んでるんだぜ、あそこ」
「でも、このままほおってちゃ、あのこ、ひどいことになる。レヴィ、わからない?」
 分からないはずが無い。眼前に渦動する陰々滅々の暗晦、その惨状を見せつけられて、これがどれほど切迫した状況であるか気づかない訳がない。
 心の表象を投影させるのが呪術、ならばあの暗澹たる有様は、全て彼の心情描写。
 それだけの淅歴たる想いを胸に抱えて、その重さに人の心と体が耐えられるなどとは到底思えない。彼を放置して、それが収まるというならば、その時はきっと、黒炎に彼の全てが焼き尽くされた後だ。
 そうなれば最早取り返しなどつくまい。後に残るのは、かつて人だったその残骸だけ。
「だからって、見ず知らずの誰か一人を助けるために命張れってか……」
 それでもレヴィナスは躊躇する。あのまま放っておけば、町にとっても、当然あの少年にとっても大きな損害だ。だからと言って、何の義理も無い誰かと何かの為に命を投げ出すというのもおかしな話だ。そもそも解決させる目処すら立っていないのだ、そんなのは殆ど無謀な無駄死にでしか無い。
「なんだよ、いこう! なあ、レヴィ!」
「…………」
 頑なにその態度を崩さないレヴィナス。そんな彼に苛立ちを覚えたのだろう、リドは握ったレヴィナスの手を思いっきり振り解く。
「おい、リド!」
「レヴィのばかー! いくじなしー!!」
 いーだ、なんて大きく口を開き舌を突き出して、そのまま真っ直ぐ駆けていく。
「……ああ、クソッ。どうして俺の周りの奴らは皆『いい奴』なんだろうな!」
 レヴィナスは大きく頭を掻き、両手で頬を強くはたく。
 じんじんと広がるその痛みで決心が着いたのか、二人の後に続いて足を進める。その表情に宿すのは、先に行った同志達と同じものだった。

 


 レクは途方に暮れていた。雲が覆っているとはいえまだ日中であるというのに、その暗然たる様ときたら、一歩足を進めるその先さえ見ることは叶わない。全身に感じる強烈な悪意で目的とする場所こそ理解できるが、自らに襲いくるその想いの強さは、大人に成り切れていないその体と精神には絶対的な壁となって行く手を阻む。天に地に螺旋を描く感情の災渦に、レクはただただ戸惑うばかりだ。
 足の動きが止まる。歯の動きは止まらない。体はその芯から震え、まともに立つことすら難しい。
 何故なら、彼はこの想いを知っている。
 縋り付いていた、自分の全てだった何もかもを失ったあの時に、彼の心にあったもの。忘れもしない、幾年も前に感じた想いは、これと全く同じだったから。
 絶望、葛藤、落莫、そして虚脱と自己の崩壊。心に詰め込めるだけの負の感情が満たされて、満たしきってもまだ満たされて、そして耐え切れずに粉々に砕け散って。
 彼は涙を流している。負の感情は病の如く伝染するものだ。情動の濁流に飲み込まれて、身動きが全く取れなくなって……
「レク、またせた! きたぞー!」
 そんな彼を支えたのは、リドの小さな温もりだった。左の手を強く握られる。
「あんな啖呵切ってった癖に、何泣いてんだよ。なさけねーな、お前」
 今度はレヴィナスに右手を掴まれる。『光灯』の呪文すらまともに組めない闇の中であるが、それでも動かすべき足が、熱を感じる手と手が、そして、自分にとって大切なその人の顔が明るく照らされる。
「え、なんで、え……」
「どっかの考え無しのバカを追って、おんなじ様に考え無しのバカが走って行ったからな。そんなバカ二人、それこそ放っておけるもんか」
「おまえひとりじゃ、ふあんだからな! きてやったぞ!」
 やれやれと頭を振るレヴィナスと、思いっきり胸を張るリド。全く異なる態度であったが、その根底にあるものは同じだ。
 そしてそれは、レクの中にも。
「おら、いいからとっとと行くぞ。悠長に待ってらんねーんだろ?」
「お、おうっ! ……よっしゃ、行くぞー!」
「いくぞー!」
 吹き荒れる風に飛ばされないように、流れ渦巻く波に飲み込まれないように、三人で手を繋ぎながら歩き始める。
 ならばもう、壁なんてどこにも在りはずが無い。強く強く、しっかりと、砕けた地表を踏みしめながら進んでいく。
 
 渦中の荒れ様は、予想していたとはいえ相当なものだった。
 家だったはずの瓦礫や木片が突風に吹かれて舞い滾る。家が軒を連ねていたはずが、そのほぼ全てがことごとく破壊されている。真っ暗闇の中、嵐か台風の真っ只中であるかの様な猛風。
 降りかかる砕片を防ぎながら暗がりを進む。胸の奥に恐怖が侵食する。が、構うことは無い、その全てを跳ね除けて進む。
「! あそこ!」
 リドが指を差すその先は、レクとレヴィナスにはそれを見るのはとても難しかったのだが、良く目を凝らせば確かに小さな人影らしき物の動きを感じる。
 しかし、その周囲の暗黒は一層濃く、そして深い。轟々と鳴り響く風も一段と強い。
「ど、どうしようレヴィナス?」
「どうするって、進むって決めたのはお前だろうよ」
 レヴィナスの手から光が漏れる。闇の中に、金に輝く方円が描かれた。
『我が手には光、我が手には風。琥珀の松籟よ、樹梢の果てに静謐を――』
 不意に、レクは自らに入り込もうとする恐怖のその全てが払拭されていくのを感じる。心は穏やかで、けれど力強い。
「『平静』魔術は割りかし得意なんだ。対象を単体に絞って行使する分には、あの感情の嵐だって、もしかしたらなんとか突破できるかもな」
「あ、あやふやだ……」
「最初ッから全部あやふやで曖昧な作戦だろうが。俺やリドの体じゃそもそも風にまかれて飛ばされちまうかもしれねーしな。お前一人で行って何とかしてこいよ」
「……おう!」
 何とかと言ってもどうすればいいのかなんて、一つっきりの案も有りはしない。それでも、レクの決意は固かった。
「よっしゃ、行ってこい。さっさと帰ってこいよ」
「がんばってこい、レク!」
「ああっ、任せとけ!」
 二人に背中を押され、レクは躊躇うことなく闇の中に飛び込んだ。
 途端、肌を切り裂く疾風と心を砕かんと迫る悲しみ苦しみ恨みつらみ嫉み妬みありとあらゆる絶望失望暗鬼の情。
「…………!」
 揺らぐ体を踏み留ませ、たじろぐ心を激しく叱咤する。
 感心した。レヴィナスの『平静』魔術は一級の物だ。荒れる突風に体を奪われる以上にかき消えそうな心も、何とか安定を保てている。
 同時に心配になった。これほどの闇に心を犯された人間は、今一体どうなってしまっているのだろうか。無明の闇の中で、その少年はどうなっているのだろう。
 そして、なんだか腹が立った。どうしてまだずっと幼い子供がこんなことになっているのだろう。自分の目の前で、これだけの闇に囚われて苦しんでいる人がいることに腹が立った。
 レクがそんな少年を助けたいと思ったのは、見返りを期待してのことでは無い。そこには、ほんの虚栄心も自尊心も存在しない。
 ただ、それはただ単に、
「う、うぅ…… たすけ、て、……」
 この碌でも無い現実に打ちのめされて、それでも手を伸ばして助けを乞う少年が、かつての自分と重なって見えたのだ。
 本当は、一発くらいぶん殴ってやろうかと思っていた。理由が何であろうとこれだけ豪快にあちこち破壊して回っているのに苛立ちがあったし、気絶させてしまえば全ては止まるかもしれないと考えたから。
 だが、それが実現することは無かった。レクは自らに伸ばされる手を振り払える程に冷徹でも、合理的でも、そして大人であった訳でも無かった。
 だから、レクは眼前の少年を強く抱きしめた。ありったけの闇を抱いたその小さな体躯を、確かに確実に離さないように。
「あ、う……」
 もう、泣かなくていい
 助けてやる。俺が、助けてやるから。必要とされてやるから。
 だから、お前も、そして俺も、もう泣かなくていいんだ。

「…………」
 二人の周囲は全くの無音だった。台風の中心が晴れやかであるように、少年の周りの僅かな空間だけは狂気が踊ることは無い。
 頭上には霊がいた、3人。外で渦巻く闇を歓喜するように。しかし、そんな動きも次第に穏やかになり、その姿は徐々に薄れてゆく。
 外で暴れる闇も風も暴力的な感情も、段々と弱まっている。
 なんだ、やってみればあっさりと片付いてしまった。勿論、今のレクにはそんなことに喜んでいる余裕など無いのだが。
「……わるい、ユメを、見ていたんだ」 
 レクの腕の中で、少年が呟きはじめた。その声は余りにか細く、そして今にも消え入りそうだったが、それでもレクの耳にははっきりと届いた。
「……もう、朝、なの? 助かって、いいの?」
「ああ、助かっていい、助からなきゃいけないんだ」
 力強い返答に少年は安心しきったのか、目を閉じてレクの腕の中に倒れこんだ。規則的な寝息が聞こえるのだから、どうやら眠ってしまったようだ。
 闇はもう殆ど晴れ、レヴィナスとリドも駆け寄ってくる。綺麗に片付いた地表、いつの間にか晴れていた空。嵐の後は、いつだって世界は綺麗に輝いている。
「といっても、これは人災だからな。何もかも綺麗さっぱりって訳にゃいかねーだろうが……」
 でもまあ、いいか。
 レヴィナスはほっと胸を撫で下ろす。リドは喜んではしゃいでいる。レクの顔も、空に昇っている太陽を彷彿とさせる程に明るいのだから。

 


 それから数日後の朝。
「皆さん、ちょっと来て頂けますか」
 日の出と共にレヴィナスは起床し、ほぼ同じ時間にダイチが部屋を訪れた。
 未だ夢心地といった風にうとうとと立ち上がるリドを優しく揺さぶって起こし、大いびきを立てながら幸せそうに眠りの内にいるレクを叩き起こす。三人は手早く準備を済ませ、ホールへと降りる。
 そこに立っていたのは、
「……おはよう」
 ダイチに体を支えられるようにして立つ、シェーレの姿だった。
「あれ、おまえ、なんで!?」
「自警団で預けられてたんじゃ……!?」
 リドとレクが驚きの声を上げ、その質問の返答はダイチが答える。
「今日からうちで預かることになったのです。何しろ自警団では呪術の扱いに詳しい人など全くいませんし、彼は先日の件でスラムや盗賊から大きな因縁を買ってしまった。処罰しようにも、また下手に『裏』の人達と接触されようにも、それは先日の二の舞になるかもしれないと」
「その件を解決したのはうちだし、呪術の心得のある人間も所属してるしな。最も、あいつはしばらく戻ってこないと思うぜ?」
「それでも、ずっとあそこに置いておくよりは幾分かマシでしょう。レヴィナスさんは呪術の適正こそありませんが知識は持っているのだし、前回の件で直接シェーレさんの心に触れたのはレクさんとも聞いていますから」
 まあ納得できない話ではない。しかし、あれほどの器物破損の犯罪者を殆ど何の処罰も無く引き取ってしまうというのは解せない話だ。
「こういう仕事をしていれば、私だって色々な物を持っているのですよ。例えばそう、人脈とかでしょうか。それに、そもそも彼らには『あの事件の犯人がこの子』というのを証明できませんから」
 そう言ってダイチは目の前のシェーレの肩を叩く。前に見たときとは違って、服装も整然としたものだった。糊の利いたワイシャツに、揃って青いブレザーとパンツ、そして首元に結わられた紐状の赤いタイは、どこかの学府の制服を思わせる。明るい茶色の髪も前よりずっと綺麗に手入れしてあるし、琥珀色の瞳はやはり感情に乏しく見えるものの、決して空虚な印象を与えるものでは無い。
「とりあえずしばらくは、彼の様子はあなた達に見てもらいたい。彼にとっても、何も知らない人よりはあなた達と一緒にいる方が良いでしょう」
 構いませんね、とダイチはシェーレに話しかける。シェーレは何も言わなかったが、黙って顔を縦に振った。
「そっかそっか! オレはレクだ。よろしくな、シェーレ!」
「おれ、リド! よろしく、よろしくー!」
「俺はレヴィナスな。これからよろしく」
 レクとリドが真っ先に駆け寄り、すぐにレヴィナスも後に続いた。3人は揃って手を差し出す。シェーレはその様子に圧倒され、ぽかんと大きく口を開く。そして数瞬の後、
「……ぼく、シェーレ。レク、リド、レヴィナス、ありがとう。よろしく、ね」
 ゆっくりと自らの手を3人の手に重ねた。
 その頬はもう殆ど動くことは無いが、それでも彼は、緩やかに微笑んでいた。

 


「……ああっ、忌々しい!」
 グラスが地に叩きつけられた。柔らかな絨毯の上であったからそれが割れることは無かったが、中に注がれていた赤い液体は全て零れてしまう。緋色の絨毯に、どす黒い赤が侵食していく。
 長い間締め切られているのか、その部屋の空気は淀んで汚らしい。そこらに無造作に放ってある鎖や手錠だとか、天井から吊るされる剣、斧、槍、鎌、その他大小古今様々な拷問器具だとかが、この部屋の雰囲気を一層悪いものに仕立てている。壁に飾られた幾つものヒトの形を模した『何か』からは、最早声と成ることの無い絶叫が甲高く響き渡っている。
「おやおや、その様子ではやはり失敗ですか」
 彼女は揺り椅子に座ったまま、彼に顔を向けようしない。カーテンも全て締め切られた闇の中、明かりは小さく点る暖炉の火だけ。ならば、例えその声に振り返ろうとも相手の顔など伺えないのだから、それは至極当然な態度とも言える。
「全く腹立たしいわ! 仕事が上手く行かないのなんて、これが初めてよ! そもそも、あなた誰だったかしら?」
「そうですね。あなたの仕事が完璧に遂行されなかったのはこれで5回目です。私の名など、名乗るだけ無駄でしょう。それに、私は私の名前があまり好きでは無いのです」
「あらそう、それは可哀想ね。同情、欲しい?」
「いいえ、結構ですよ」
「ふうん。……しっかし、本当に腹立たしいわ。虎の子の霊を3つも付けてやったって言うのに!」
 自分から話を振っておきながら、彼女は彼に全く興味が無いようだ。
「あなたも随分趣味が悪いようですね。あの子供を不幸の底の底に叩きつけることが、そんなに楽しかったと?」
「あなたと一緒にしないでくれる? 私は仕事を完了出来なかったことと、無駄に財産を消費してしまったことに憤っているの。何なのよ、人の仕事に横槍入れてくれるなんて!」
 椅子を豪快に揺らせる彼女の後ろで、彼は何とも愉快そうに笑みを浮かべる。それは見た物全てに悪寒を走らせる類の狂気を含んでいるが、彼女には全く効果が無い。そもそも見えていないのだから。
「ははは、まあいいでは無いですか。彼らならばその程度の働きは、想定の範囲にあったとさえ言える」
「はぁ……!? あなた、あいつらの事知ってた上に、それを放置してるの!?」
 彼女は勢い良く立ち上がると、初めて彼の顔を見やった。そしてそのまま部屋を出ようと早足で駆け、
「ああ、その必要は無いですよ」
 それを彼に止められた。
「何を言っているのよ、邪魔者は排除するのは当然じゃない。あなたにだって分かっているでしょう、『アレ』は私達にとって鬼門よ」
「ええ、ええそうでしょう。だから私はここで、『今はまだ』と付け加えておきましょう。まだ時間が必要なのですよ。色々と、ね……」
 歯を食い縛って睨みつける彼女とは裏腹に、彼は口角を人間としては不自然な程に吊り上げ、けたたましい笑い声を上げる。その様子は何とも愉快そうで、彼女の機嫌は益々損ねられるのだった。





 





























































































































































































































































 






































































































































































前・第三話前編へ 次・第四話へ 戻る

inserted by FC2 system